シニンノカゲ:6章part3
🕑 Added 2025-08-15 11:47:46 +0000 UTC
3. 姫咲トワイライト③
次の失踪者が出たら即座に梨緒が"彼女"を殺す。
また、私たちが彼女の救済に向かう際は梨緒も同行し、その場で救済不可能と判断した場合も梨緒が彼女を殺す。
それが私たちが梨緒と交わした約束だった。
失踪者は増え続け、現時点で12人もいなくなっている。
流石に大事だ。つい昨日、地元新聞でも取り上げられていた。
それなのに、学園長は未だに大した対策を発表していない。
学長が怪異の仕業であることを認める日など来ないだろう。
このままでは、ズルズルと失踪者は増えて行くばかりだ。
なんとかしないといけない。私たちが。
可能ならば、"彼女"を救いたい。
それが私たちの思いだった。
怪異となった彼女のことはやはり恐ろしい。だけど、そうなったのには事情があるのだ。
例え彼女が儀式を行おうとしていたとしても…自死に至るような儀式を行おうとした経緯にはきっと同情できるような出来事がある…はずなのだ。
そうなら、やはり救ってやりたいと思う。これまでと同じように。
だけど、梨緒の言うことも無視できない。
梨緒のやり方は、私たちから見ると残酷だけれど…"とりあえずの事件解決"には最適なのだ。
これ以上、失踪者を増やさないためなら…きっと梨緒のやり方が一番、手っ取り早い。
だから約束を飲んだ。
でもそれは、約束を結ばなかったら梨緒はすぐにでも彼女の殺害に動くだろうという伽耶の考えもあったからだ。
時間はない。
次の失踪者が出る前に私たちは彼女を救済せねばならない。
これまでの生徒の失踪ペースを考えれば、明日にでも、いやもうその日中にでも動くべきだった。
私たちはとにかく彼女に関する情報を集めようとした。
だけど、それはほとんど集まらなかった。
学校周辺の人々も、学校関係者も、誰も彼女のことを知らない。
切なくなった。
辛い現実から逃げるために自ら命を絶った彼女のことを、私たち以外もう誰も知らないなんて。
私たちも、怪異となった彼女のことを意外なにも知らない。
生きていた頃の彼女のことはこれっぽっちも分からない。
こんな状態で救済に臨んでも良いものなのか。それは度々、伽耶たちと話し合っていた。
でも、私は彼女が救済を求めていると信じていた。
でなければ、彼女はあの小屋で私にあんな光景を見せたりはしないだろうから。
なんとかなる。きっと。今回だって。今回だからこそ。きっと、最後だから。
私はどこかぼんやりとした、しかし信用出来る自信を胸に拳をぎゅっと握った。
オレンジ色の光の差す廊下をぶらぶらと歩く。
保健委員の仕事が長引いたせいで、校庭での会議に遅れている。
靴を履き替え、昇降口から出ようとすると、梨緒と和真にばったりと出会した。
梨緒はその切長の目を僅かにぴくりと動かした。多分、驚いたのだ。
梨緒からは、相変わらず"黒"を感じる。
「こんにちは」
和真がよく通る声で言って、お辞儀をした。
隣の梨緒もそれに倣って小さく礼をした。
「あ…どうも…」
伽耶たちといる時にこの二人と会うのはなんともないのだけれど、こうして一人の時にばったり出くわすとどうにもやりにくい。
「例の日程…決まったら教えてください。なんなら今日でも…」
梨緒はそう言って肩にかけた鞄を摩った。
鞄の中にはきっと、あれがあるのだ。
「わかった。今日…ってことは多分ないと思うけど、なるべく早くに…ね」
まだ何も決まっていない。
私が足早に校庭の方へ向かおうとすると──
「ちょっといいですか」
梨緒が私を呼び止めた。
私の心臓がきゅっと鳴った。
なんだかとても、嫌な予感がした。
「先輩たちはどうして怪異の救済にこだわるんですか」
後ろから梨緒の声がそう言った。
私の嫌な予感は的中した。
こういうことを聞かれたくはなかったのだ。
多分、梨緒は私より頭が切れる。煙に巻くこともできないだろう。
「それは…」
上手く伝わるか分からないし、梨緒が納得するとも思えないけれど…
私は人面犬のことや、他にも私たちが遭遇してきた哀れな怪異たちについて語った。
皆、苦しんでいたのだと。
だから、救ってやらないといけないとそう思うのだと。
「優しいんですね。先輩たちは」
梨緒は抑揚のない声で言った。
私にはそれが、本心には思えなかった。
「そう…かな」
「さっき須崎先輩にも会いました。今と同じことを聞いたんですが…美愛先輩と同じことを答えていました」
それはそうだろう。
でも──
「伽耶の気持ちは多分、人一倍強いよ」
そう。私たちの中で最も、怪異の救済にこだわっているのはきっと伽耶だ。
「そうなんですか。いや…そうかも知れないですね」
梨緒は一度不思議そうに眉を上げてから、すぐに納得したように目を細めた。
怪異救済に対する伽耶の思いは強い。
伽耶には父親がいた。でも今はいない。
伽耶の父は、伽耶が中学頃に深酒をした後、風呂場で溺死した。
晩年の伽耶の父は、酒に溺れて家庭内暴力をふるう人物だったという。
でも、伽耶曰く父親も昔は、昔はとても優しかったのだそうだ。
それがいつからか暴力的な男に変貌した。
父の死後、自宅の風呂場には出るようになったという──哀しげに立ち尽くす男の霊が。
男は何をするでもなく、ただそこに立ち続けていた。
男が立っている間、伽耶の耳には、父親の怒号が何度も何度も響き渡った。
暴力的な面だけを見れば、父は救いようのない奴だと思える。
でも、伽耶の記憶には確かに優しかった頃の父がいる。
どっちが本当の父なのか伽耶はしばらく考えたと言う。
そして。
──どんな奴もさぁ…やっぱり根は良い奴なんだって、思いたいじゃんか。
伽耶はそんな結論に至っていた。
伽耶は、優しかった頃の父こそが父であるとそう思うことに決めたのだ。
例の御札を手に入れてから伽耶は一人で父を"救済"した。
その時の父の様子は本当に、昔の優しかった頃の父そのものだったのだと伽耶は言っていた。
だから、他の怪異たちもきっと、
私は梨緒に、伽耶のことを全て話した。
梨緒は、逆ですね、とそう言った。
「逆…」
「私は、怪異に大切な人を殺されました」
梨緒は目を閉じた。隣の和真が俯いた。
「最初は、哀れな死に方をした怪異に同情する気持ちもありました。けれど、大切な人の死をきっかけにそれは甘いんだって思い知らされた。同情する気持ちがあったから…私は大切な人を失った」
梨緒は静かに目を開ける。目が僅かに赤くなっていた。
「私の遭遇してきた怪異は…どれも同情の余地もない怪異たちばかりでした。対して…先輩たちの遭遇してきた怪異たちは聞いたところ…そうではない。真逆です。まるで仕組まれているみたいですね。私たちは真逆の怪異を相手にする道を進んできた。でも、今回その道が交わった…」
そう。
そうだ。
だから、どうするのが正解なのか分からない。
「道が交わったからと言っても、やることは変わりません。いえ、変えてはならない。だから今回も…」
梨緒はまた、鞄を摩った。
◯
校庭では既にいつも通りの光景が広がっていた。
朝礼台には伽耶。その真下にヒヨコ。そして少し離れた校庭の影に春香が屈んでいる。
私が春香の傍を通り過ぎると、春香は私を見て自分の鼻をちょんちょんと触った。
こんな時でも私の鼻が欲しいらしい。
「あ。きたきた。お疲れ」
伽耶が手を挙げる。
私は、さっき梨緒に出くわしたことを伽耶たちに話した。
私たちが何故、怪異を救済しようとするのかを梨緒に話したこと。
梨緒が何故、怪異殺害にこだわるのかを聞いたこと。
話し終わると、伽耶はふうと大きなため息をついた。
「どうしたもんかねぇ。そういうの」
伽耶は気難しい顔をしてぽりぽりと頭を掻く。多分、本当にかゆいわけでわはない。
「私らの考えてることって、単なる理想なのかな」
伽耶は腕を組み、夕焼け色に染まった空を見上げた。
「どうなんだろうね」
私にも分からない。
どんな怪異にも同情の余地はあるものなのだとそう思っていたけれど、梨緒の話を聞くとそうでもないような気がしてきた。
だけど、私たちの行く道には常に救いを求める怪異がいた。
梨緒の道には真逆の怪異がいる。
交わった道は、一体、どちらの道なのか。
救いを待つ怪異のいる道か。
それとも救いようのない怪異のいる道か。
「ねぇいっそ学校中の鏡全部割るとかじゃ駄目なわけ?」
校舎の影から春香のだらけた声が飛んで来た。
「でもそれ校内の全部割らないととだよー?」
朝礼台の下からヒヨコが返事をする。
「うん。そーそー。それでいいじゃん。明るいうちにさ、ハンマーとかで割っちゃうの」
春香は握り拳を作ってぶんぶんと振った。
「それ。粉末レベルにまで粉々にしないと意味ないんじゃない?それにさぁ、それじゃあ救済できねーじゃん」
伽耶が呆れたように言って座ったまま後ろに手をついた。
「鏡の中の"あの女"が…救済を求めてるかどうかは…対峙してみないと分からない。それに、これ以上、情報も集められないし…一度、正面から会ってみるしかないかも」
伽耶は反動をつけて座り直した。
「本人からなら確実な情報を得られるかも知れないし。もちろん、危険だけどね」
私も、ヒヨコも、ちょっと離れたところにいる春香も、何も言わなかった。
でも、みんな分かっていた。
もうそれしか方法はないと。
小屋であの光景を私が見たように、彼女に近づくことで、彼女を知ることが出来るのなら──。
「本気でいかないとね。これまで以上に」
私が言うと、伽耶は私の目を見て頷いた。
「そうだね」
朝礼台の下からヒヨコが出てきた。
「それしか…ないかぁ」
春香が立ち上がって、タオルを頭に被ったまま朝礼台の方へ寄ってきた。
「ひとはだ脱ぎますかぁ」
春香は頭のタオルを首にかけ、ぎゅっとタオルを握った。
全員の意見が一致した。
これで、私たちはようやく動き出すことが出来る。
でも。
「ねぇ。もし上手くいかなかったらどうする?」
私はそれが不安だった。
今回は、いつもとは違う。
「その時は梨緒ちゃんが仕留めることになるんでしょ?」
春香が当たり前でしょと言わんばかりに、アーモンド型の目をパチパチさせた。
「そうじゃなくて。それも上手くいかなかった場合」
「い、いやそれはないでしょ流石に」
春香は笑いながら私の肩をとんと叩いた。
「いや。美愛の言う通り、どうなるか分からないよ」
伽耶が言うと、春香の顔から笑みが消えた。
「残る御札も少ないし…梨緒だってプロじゃない。失敗する可能性は大いにある。だから、失敗した時のことを考えておいた方が良い。例えば…」
「すぐさま逃げる!とか!」
伽耶の言葉を、春香が継いだ。
「そ、そうそう。あとは…」
「必ず全員で逃げる…とか」
今度は私が、伽耶の言おうとしていることを言ってやった。
「それもそう。難しいかも知れないけど…これはゆずれない」
伽耶は少し照れくさそうに下を向いた。
「ねぇ。もし私たちが死んじゃってオバケになっちゃったらどうする?」
春香が縁起でもないことを笑いながら言った。
「その時は、誰かに救済してもらえるのかな」
ヒヨコが不安げに俯く。
死ぬだけでも最悪なのに、その後に怪異になるなんて考えたくもない。
「大丈夫。怪異になっても死ぬほど行った"ジョセフ"のことでも話されたら余裕で生きてた頃のこと思い出せるからさ。だから…まぁ…私がそうなったら誰か頼んだ!」
伽耶が豪快に笑った。
私も釣られて笑った。
確かにジョセフの店内の匂いはもう遺伝子にこびりついている。
「うわー。伽耶が怪異になるとか最悪。絶対蹴ったり殴ったりしてくるじゃん」
春香が汚物を見るような目で伽耶を見た。
「まぁ真っ先に春香は狙うわ。さて…」
伽耶は朝礼台からぴょんと飛び降りた。
「…覚悟決めていこうか」
私たちは、互いにその視線を重ね合わせ、その視線を校舎に向けた。
◯
翌日の夕暮れ刻。
私たちは小屋の前に集まっていた。
今日は学校自体が休みの日である。部活動もない。教員たちも誰もいない。
彼女が現れる夕暮れ時から真夜中の間で出来るだけ明るい時間帯から集まりたかった私たちにとって今日は絶好の日だった。
「もし、彼女が救いようのない怪異だった場合、あるいは…先輩たちのやり方が失敗した場合は約束通り…私が片をつけます」
梨緒が般若の包丁を握り締める。
「分かってるよ。私は絶対…救ってみせる」
伽耶はそう言って、半壊している小屋に足を踏み入れた。
私たちも続いた。
昼間に来た時より、なんだか空気が重い。
その重さに私の気持ちまで重くなる。
散らかったガラクタの合間を縫うようにして奥のあの姿見の前まで来た。
ぼろぼろの黒い布から覗く鏡面の向こうには、まるで私の知らない世界が広がっているように思えた。
伽耶が姿見の前に立つ。
「いくよ」
伽耶が私たちを見た。
私たちは静かに頷いた。
自分の胸を強く打つ心臓の音が大きく響く。
裏山から蝉の声がやかましく聞こえているのに、私たち一人一人の鼻息や、唾を飲む音が鮮明に聞こえた。
梨緒が包丁を腰に隠した。
伽耶が息を吸い込む。
「そこにいるんでしょ。会って話しましょう。藤島小百合さん──」
伽耶は姿見に向かってそう言った。
ざわざわと裏山の木々が揺れ始めた。
蝉の声が止んだ。
ごうごうと風が吹き渡り、姿見を覆う黒い布がふわりと浮いた。
一瞬、露わになった姿見の鏡面は、漆黒であった。
鏡には私たちが映っていない。
闇の鏡面に映っているのは、鏡の闇に溶けるほど黒くそして長い髪に白いカチューシャをした一人の少女であった。
肌はたいそう白く、細身で、背は少し高い。
少女は、切長で三白眼の目を私たちに向けていた。
彼女が──藤島小百合だ。
ふじしまさゆり。その名前が脳裏に浮かび上がった時、私の背から夥しい量の汗が吹き出した。
私の脚は、震えていた。
力を入れていなければとっくに床に崩れ落ちているほどに。
まるで誰かに無理やり心臓を早く動かされていると感じるほどに、苦しい。
「貴女たちは、誰」
藤島小百合は表情を変えないまま小さく唇を動かした。
哀しんでいるようにも見える。
「あなたを救いに来た」
藤島小百合の目の前にいる伽耶が声を張り上げた。
その声は震えていた。
「救いに?私を」
「そう。貴女のことを知ってる。ここで何があったかも」
伽耶は私をちらりと見た。
私は頷いた。
そうだ。私は知っている。ここで起こったことを。彼女の悲しみを。
彼女は敵ではない。恐れることはないのだ。
「あんたを助けたい。だから…あんたが攫った人たちを返して欲しい」
伽耶は少し、前に出た。
「私が──攫った?」
藤島小百合は首を傾げた。
「何も知らないの?」
伽耶が目を細める。
隣の梨緒が訝しげに眉根を寄せた。
「私はここから出られない。ずっと。ずっと」
藤島小百合は、生気のない哀しげな目をしてそっとその白い手で鏡に触れた。
彼女の手は大きい。指はピアニストみたいにすらりと長い。
その手は間違いなく、鏡の向こうから鏡面に触れていた。
「自分のこと、分からない?思い出せないなら手伝うから…」
伽耶は声を震わせながら自身の手を、鏡面に触れている藤島小百合の手に重ねようとした。
「待って先輩!」
梨緒が叫んだ。
藤島小百合の生白い手が、その手が、音も立てずに鏡面からぬうと顔を出した。
「はっ!?」
伽耶が声を上げる。
鏡から顔を出した手が、伽耶の手を掴もうとする。
それは酷く、獰猛な手つきだった。
伽耶は持ち前の反射神経で後方に飛んだ。
藤島小百合の長い指は空を掴んだ。
だが。
その生白い手から、モゴモゴと茸(きのこ)のように別の手が生え、さらにそこから手が無数に繁殖し、伽耶を捕えようとした。
何かが無数の手の塊を切り裂き、ばつんっと生々しい音がした。
濁った悲鳴が上がった。
梨緒が般若の包丁を振ったのだ。
姿見がぐらりと揺れる。
「梨緒っ!」
和真が梨緒の襟首を掴んで力づくで引き寄せた。
爆発音みたいな大きな音を立て、姿見は倒れ、鏡面は煌びやかに粉々に砕け散った。
「だ、大丈夫!?」
ヒヨコが伽耶に駆け寄る。
伽耶は後ろに飛んだ勢いで尻餅をついていた。
「やばいやばいやばいって今のは…」
春香があたふたと伽耶と梨緒を交互に見る。
「くそっ!上手く切れなかった…!先輩!約束通り私は彼女を仕留めます」
梨緒は和真の手を借りて起き上がった。
「待って!まだっ…まだ分からない」
伽耶が起き上がろうとしてよろめいたので私は伽耶に手を差し出した。
伽耶の私よりちょっと分厚い手のひらが私の柔らかい手のひらを握った。
伽耶を起こす時、床に散らばったいくつもの鏡の破片を、ぬるぬると何かが移動するように横切るのが見えた。
それが向かった先にあるのは───夕焼け空の下に聳える校舎であった。
全員が、校舎を見つめていた。
「あの女が…校舎の中に…」
梨緒が包丁を握ったまま、校舎の方へ歩き出す。
「待って梨緒。あそこにはいくつも姿見がある。あいつのテリトリーだよ…一旦、体制を立て直さないと!」
伽耶は梨緒の前に回って必死に梨緒を止める。
「だったら尚更…殺さないと…また犠牲者が出ます」
梨緒は包丁を持ったまま突き進んだ。
伽耶は危うく包丁に刺されそうになりながら飛ぶように梨緒を避けた。
「あの小娘っ!」
「止めないと!」
私たちは梨緒を追って校舎へと向かった。
夕暮れ時の校舎はこんなに暗かっただろうか。
そんなことを思った。
誰がそうしたのか分からないが、昇降口のドアがやけに大きな音を立てて閉まった。
その音が、限りなく闇に近いこの夕焼け色の校舎に大きく響き渡る。どこまでもどこまでも。
梨緒は止まることなく校舎奥へと進んでいく。
「梨緒ー!ちょっと待ってよー!」
和真が呼んでも梨緒は止まらない。まるで何かに取り憑かれたかのように。
私たちの忙しない足音に合わせるように、どこからかくすくすくすと嗤う声が聞こえる──気がする。
何が可笑しいというのか。
彼女が私たちを嘲笑っているのか。
彼女は私たちを拒絶しているのか。
藤島小百合──いや、"彼女"は、救いようのない魂なのか。
それを考えている暇もない。
梨緒は廊下の突き当たりにある姿見の前で止まった。
「さぁ。出て来て。私と遊びましょう──」
梨緒は両手を広げた。
「だから待ちなさいって!」
梨緒に追いついた伽耶が手を伸ばす。
「──藤島小百合さん」
梨緒がその名を呼んだ時。
ため息とも取れるようなか細い声が、まるで冷気のように校舎に吹き渡った。
寒い。
私は思わず自分の肩を抱いた。
私は私の目を疑った。
恐らく、さっきこの目で彼女を見た時よりもずっと。
私の口から漏れる息が白いのだ。
窓の外は黒い。
この世界に太陽など存在しないかのように。
気づけば私たちのいる校舎は、深い闇に染まっていた。
ここは、どこだ。
ヒヨコが立ち尽くしたまま固まっている。
春香も。和真も。
この闇が単なる日没によるものではないことは、分かっていた。
闇は奥へ行くほどに濃厚になっている。
濃厚な闇の中…梨緒の前に一人の少女がぽつんと立っている。
少女は、俯いている。
少女の後ろには姿見らしきものがある。
「ちょっ…な、なんで鏡から…出てるの」
春香が片目を引き攣らせる。
春香に言われ、私は遅れて彼女が鏡の外にいることに気づいた。
私の足が勝手に震えて、一歩、後退りする。
彼女は、鏡の中から出られないのではなかったのか。
さっき伽耶に攻撃した際はてっきり手だけならば鏡から出すことが出来るのかとそう解釈していたが──。
あれは、都合の良い解釈だったのか。
いやそもそも…あの時はそこまで考えている余裕などなかった。
今の彼女は──完全に、鏡の外にいる。
「もしかしたら…逆なのかも…」
ヒヨコが、顔を覆う脂汗でずれ落ちたメガネを震える指で押し上げた。
「…つまり…私たちが…中に入ってしまった…とか」
「私たちが…?」
私はヒヨコの言っていることが分からなかった。
否。分かるのだ。分かるのだけれど──理解したくなかった。
──うふふふ。
俯いている少女は笑った。
「一度にこんなに沢山を捧げたら…流石の神様も認めてくれるかも」
彼女は顔を上げた。
私は思わず息を飲み、その顔から目を逸らした。
彼女の浮かべる笑顔があまりにも邪悪だったから。
作り物ではない。
根っこからの邪悪。そうでないと、見せることのできない笑顔だ。
私は自分の目で見たその"邪悪"を拒絶したくなった。
本当に彼女が邪悪ならば、私たちは彼女のことを──救えない。
「捧げる?あなたはここで何をしているの?何が目的で…」
梨緒は般若の包丁を隠したまま彼女と向き合う。
「私は神からの裁きを受けたいだけ。それなのに…それなのに…。私は捧げたのに。私が、最も大切だったものを!」
彼女は肩を震わせ、ヒステリックに叫んだ。
私は、彼女が分からなくなる。
「あと何人殺せば…私は"贖う者"になれるの」
彼女は天を見上げて何かに問いかけた。
「あがなうもの?なに…それ…」
伽耶が梨緒を見た。
「わ、分かりません…」
「お前たちには関係のない話だよ。うふふふ」
彼女はそう言って笑ったかと思うと、また哀しげな顔をして、鼓膜を引き裂くような甲高い悲鳴を上げた。
その悲鳴は嵐のようであった。
私たちは嵐のような悲鳴に吹き飛ばされ、廊下を転がった。
頭や肩や背中を激しく廊下に打ちつける。
廊下中の窓ガラスが次々に割れていく音が聞こえる。
「なんて力…」
伽耶がゆっくりと起き上がる。
「うわっ!!なにこれっ」
春香が教室の割れたガラスの向こうを見て声を上げた。
「今度は一体…」
伽耶と私は同時に春香の視線の先を見た。
そして私は今度こそ、訳がわからなくなった。
暗い暗い教室の天井から、幾つもの何かがぶら下がっている。
「あれ…制服…」
制服だ。
見覚えのある。私たちも着ている姫咲学園のセーラー服だ。
それが沢山、天井から吊るされている。
「あれは一体…」
梨緒が天井に並ぶ無数のセーラー服を呆然と見つめる。
よく見ると、天井からぶら下がっているのはセーラー服だけではない。
セーラー服の襟から、袖から、裾から──何か、からからに干からびた細くて硬そうなものが露出している。
襟から伸びるそれの先端は丸く膨らんでおり、いくつかの穴が空いている。
そして。
丸く膨らんだ部分には、か細い繊維が数本、生えている。
セーラー服から覗くその干からびた部位はまるで、人の形のようだ。
天井から伸びる鉤爪状の太い針が、干からびた肉体の喉のあたりに突き刺している。
「あれ…まさか…」
ヒヨコがへたりとその場に座り込む。
今すぐにでもこの理解し難い悍ましき光景から目を逸らしたかったが、それでも私はほとんど無意識に数えていた。その制服の数を。制服を着た干からびた死体の数を。
そして理解した。
ここにいるのは──ここに吊るされている渇いた死体は、これまでに失踪した姫咲学園の生徒たちであると。
「あれ…」
春香が教室の床を指差す。
教室の床には、見覚えのある円形の模様が刻まれていた。
奇妙な模様の上に並べられた無数のミイラ死体。
それは…哀しいから、人間が憎いから、単にそれだけの理由では、納得できない異様な光景だった。
邪悪。そうでないと、こんなことは出来ない。
「梨緒。どうやら…あいつは…私たちには、救えない」
伽耶はミイラ死体に背を向け、"彼女"のいる深い闇を向いた。
「では…怪異殺害で意見一致ということで」
梨緒は腰に隠してある包丁に触れる。
「殺害って言い方…どうにかなんないわけ?」
「では…格好をつけて退魔と言っておきましょう」
伽耶と梨緒が、同時に闇へと歩き出す。
私は、その後ろ姿にすぐについていくことが出来なかった。
彼女が私に見せたあの光景はなんだったのか。
あれは。
私たちを欺くための、偽りの光景だったのか。
あの女は。藤島小百合は。藤島小百合は。藤島小百合とは──。
一体、何者だ。
深い闇の奥から藤島小百合が来る。
うふふと笑いながら。
あの残酷なる儀式を行った理解不能の殺人鬼が来る。
闇にぼんやりと浮かぶ藤島小百合の白い影は、私たちの視界に収まりきらないほど大きく大きく大きく膨らんでいく。
彼女の嗤い声が、耳の中に直接響いていく。
けたけたと鼓膜をくすぐる不気味な声。
それが。
悲鳴に変わった。
闇の中の藤島小百合がうずくまっていた。
腹部から、どろどろと真っ黒い液体が流れ落ちている。
藤島小百合の前に、般若の包丁を握り締めている梨緒がいた。刃先から、黒い液体が垂れている。
「悪いけど…容赦はしない!」
伽耶は御札を宙に放り投げ、足を突き出し、つま先で御札ごと藤島小百合の腹を蹴った。
ごうっと腹部に炎が燃え上がり、藤島小百合はあああっと情けない声を上げて廊下を転がった。
邪悪。そう割り切ったはずなのに、やはり、胸が痛む。
「教えて。あんたがどうしてあんなことをしたのか。それくらい聞いておかないと…殺された人たちが救われない」
伽耶は廊下に転がる藤島小百合を見下ろした。
藤島小百合は顎を引き、黒い液体まみれになった口を歪めて笑った。
「殺された者に救いなんてない」
藤島小百合が唇を窄め、ふぅと息を吐いた。
鋭い突風が私たちのすぐそばを吹き抜けた。
伽耶の、髪に編み込まれた鈴緒が切れる。
壁が。床が。天井が。吐息にズタズタに引き裂かれた。
まるでカマイタチのようだ。
「やばっ!?」
立っている場所がもう一ミリでもズレていたら即死していたであろう春香が腰を抜かしていた。
「逃げるよ!!」
伽耶の声がぴしゃっと響く。
私たちはただ伽耶の声に従って、走り出した。
動かなかった梨緒を、和真が手を掴んで無理やり連れて行く。
藤島小百合をどうするのかとか、あの儀式のようなものはなんなのかとか、そんなことはもう、考えられない。
──うふふふ。逃げ惑え。逃げ惑え。
掠れた藤島小百合の声が頭に響く。
私たちは昇降口に流れ込み、玄関ドアをこじ開けようとする。
だが。
ドアは固く閉ざされ、びくともしない。
「窓!窓ぶち割ろう!」
春香が窓を指差した。
伽耶が傘立てを掴んで持ち上げ、窓にぶつける。
窓は簡単に割れた。
しかし、窓の外は深い闇だ。
割れた窓から、どろどろと深い闇が流れ込んでくる。
「くそっ!なんでっ…」
伽耶の顔に見たこともない焦りの表情が浮かんでいた。
「も、もし本当にここが鏡の中なら…昇降口からだと出られないのかも…」
ヒヨコがドアの取手を握り、ガタガタと引く。やはりドアはびくともしない。
「ここからは出られないって言っても…」
引き返せば、藤島小百合がいる。
彼女は確実に、迫ってきている。
「残る御札で正面突破するしかないか…」
伽耶は残り少ない御札を握り締めた。
「もう…効かないかも」
誰かが弱々しい声で言った。
梨緒だった。
梨緒は頭を抑え、屈んでいた。
呼吸が乱れ、苦しそうだ。
「あの女の気配が強くなってる…なんで…こんなに哀しいの…まさか…」
梨緒は藤島小百合がいるであろう闇の方を向いた。
「あの女が…教室にいた失踪者たちの怨念を取り込んだのかも…まずい…」
梨緒はよろりと起き上がり、壁にもたれ掛かる。
「まずい。まずい…私たち全員──」
──死ぬかも知れない。
梨緒は目を見開いたまま、そう言った。