シニンノカゲ:4章part1
🕑 Added 2025-07-13 13:13:50 +0000 UTC
1. 贖う者
─2022年12月12日月曜日─
昨日は丸一日、水羽とは連絡がつかなかった。
一昨日の夜、水羽の助けにより旧校舎から脱出した羅那はその後、女性に引き摺られるようにして旧校舎から出てきた水羽を目撃している。
だから、ひとまず無事だったのだろうと安心はしていた。
だが、水羽も彼女を引き摺っていた女性もただならぬ様子だった。
まるで、逃げて来たかのような──。
羅那が逃げた後のあの教室で何があったのか。
すぐにでも聞きたかったのだが、誰かに目撃されてはならない立場である羅那は、物陰からこっそりと眺めているしかなかった。
その後、旧校舎は学校と警察により完全に封鎖された。旧校舎の鍵も警察が預かることになったのだ。
これで羅那たちがこっそりと旧校舎に立ち入ることは出来なくなった。
そして今朝、朝一番に水羽から連絡が届いた。
どうも水羽を引き摺っていた女性というのは、特殊事案心霊対策課の刑事だったらしい。
その特霊課の寒川という刑事から水羽は昨日たっぷりと"取り調べ"を受けていたという。
水羽によると、あの夜、寒川によって尋問されていたまさにその時、"首無しの少女"が教室に現れた。
首の無い女は泣いた──らしい。
子供のように。
そしてその泣き声に呼応するように、くね子の名も連なっていた例の七不思議の怪異のほとんどが波のように押し寄せて来たとのことだ。
そして二人は命からがら旧校舎から逃げ出した──。
首の無い女。
また、出たのだ。
羅那がいなくなった後に。
水羽にも首無しの正体は分からないという。
愛維なのか乃恵なのか叶夢なのか澪なのか歌巴なのか。
あの時、愛維たちは旧校舎の外にいたのだ。
首無しの怪異が現れたタイミングで愛維たちのうちの誰か一人がいなくなっていたのならその一人が首無しの少女ということになる。
だが。
あの時、羅那が旧校舎から脱出した時には愛維たちは一点に固まっていなかった。
寒川らしき人物が一度、旧校舎から出てきたのを見て愛維たちは散り散りに隠れたのだという。
その後、十分ほどを要して羅那たちはもう一度集まったのだ。
その時は、まさか首無しの怪異が旧校舎に現れていたなど思ってもいなかった。
もしも、あの時既に首無し出現を聞かされていたなら、首無しが現れたタイミングで愛維たちのうちの誰かが姿を消していたかも知れないことに目を向けられたかも知れない。
それが分かっていれば、首無しの正体にも近づけたというのに。
結果、羅那は誰が一時的に姿を消していたのか…それも分からなかった。
水羽とはまた、連絡が取れなくなった。
彼女の身柄は警察の方に完全に移されてしまったようなのだ。
嫌になるほど、こちらの思うようにはいかない。
いつの間にか指先に力が籠っていて、ノートに押し付けていたシャープペンシルの芯のその先が折れた。
◯
今日は"女王"愛維がいる。
でも、澪と歌巴はいなかった。またバスケ部の横井たちといるのだろうか。
愛維は玉座に座ったままいつも通り、スマートフォン片手にもぐもぐと口を動かしている。その前の乃恵は横向きに座って、無言で野菜ジュースを啜っていた。
早くに食べ終えた叶夢は姿勢良く座り、何かのプリントを読み込んでいた。
特に会話はない。
さっきまでは土曜日のことと、これからのことを少し話した。けれど、何をやれば良いのかはまだはっきりしない。
なんせ、旧校舎には立ち入れなくなってしまったのだ。
そこからは無言である。
雑談も続かない。
自分たちは何のために一緒にいるのだろう。
羅那はふと、そんなことを思った。
一緒にいるのは仲良しだから。そう思っていた。
でも、本当にそうなのだろうか。
愛維たちともくだらない話はする。あの科目が嫌いだとか、あの授業がつまらないとか、あの先生がどうとかああとか。
それは決してつまらないものではない。
でも、長くは続かない。
それは、個々の話す能力が低いとかそういうことではない。
単に相性の問題というわけでもない。
女王がいるからだ。
ここでは皆が女王の顔色を窺っている。
わざわざ集まって、女王の機嫌を取っている。
だからそこが羅那には窮屈だ。きっと、他の人たちにも。
女王である愛維は頻繁に機嫌を損ねるわけでもないのに、それでも羅那たちは女王を怒らせてはならないとそう思い込んでいる。
女王といえど、愛維もいち生徒に過ぎないのに。
それでも女王であると羅那たちがそう認識しているのは、彼女が、愛維が"世界の中心"にいるからだ。
彼女が機嫌を損ねれば、羅那のいるこの輪が乱れる。
この学年の中心ともいえるこの輪が乱れれば、全体を構築するピラミッドが乱れる。
そうなれば、醜い悲劇がピラミッドのあちこちで起こる気がする。
古賀岬の憎んだような悲劇が。
統治する者の力が乱れるということはそういうことだ。
だから羅那たちは、女王による統治を乱さぬようにするしかない。
多分、そうなのだ。それが、羅那たちが女王の機嫌を取り続ける理由なのだ。
女王が例え、愛維でなくとも。
それは。
それは、楽しいのか。
この状況を果たして女王は、愛維は、楽しんでいるのだろうか。
そんなことを考えていると、口に放り込んだものを咀嚼するのを忘れてしまっていた。
愛維はどことなく機嫌が良くなさそうだ。
恐らく、澪と歌巴がここに来なくなっているからだろう。
しかも、あの二人は横井と一緒にいる。
横井と話していた時のあの愛維の眩い笑顔が頭をよぎる。
──愛維は横井くんが好きなのかな。
くだらないことを考える。
羅那はそんなに恋愛経験も豊富じゃないし、そういうことは全然分からない。
だから、愛維の様子を見て、好きなのかな、と短絡的な考えを持ってしまう。
もしそうなら、歌巴が接近しているのは愛維にとっては面白いことではないだろう。
このままだとピラミッドが乱れる──のか。
羅那はぼんやりとそんなことを思った。
◯
その日の帰り道は愛維と二人だった。
昼休みの終わりに羅那は、愛維に所属している委員会の仕事を手伝って欲しいと頼まれた。
予定もなかった羅那は引き受けたのだが、その委員会の仕事が想定より多く、下校する頃には18時を過ぎていた。
「ほんとごめんね。あんなに大変だと思ってなかった…けど、助かった!ありがと!」
愛維は眩しい笑顔で申し訳なさそうに手を合わせ、羅那の肩に手を置いた。
羅那より小さくて白い手だ。
「全然いいよ。一応、生徒会だから…他の委員会にも真面目なとこ見せておかないと」
羅那はふふふと笑う。これは、本心だ。
「頼れる人が羅那しかいなくてさぁ」
愛維の声ががらんとした廊下に響く。
大抵の生徒は部活に行くか、下校しているため、校内は既にガラガラなのだ。
「みんな忙しいみたいだよね」
羅那はテキトーな返事をした。
澪と歌巴や、別の委員会の仕事があった叶夢はともかく、愛維が乃恵を誘わないのは意外だった。何か用事があったのだろうか。
「思えばさ、二人きりで帰るのって初めてじゃない?」
愛維がバッグを肩に掛け直し、昇降口に通じるピロティに出た。
「そうかも…」
そうじゃなかったらいけないなとか思いながら、羅那は慎重に返事をする。
ピロティの妙に眩しい白い灯りが目に痛い。
「でもちょうど良かったかも」
愛維はそう言って先に下駄箱のある昇降口へ入った。
「え?」
羅那が愛維を追うように昇降口に入ると、愛維がじっと羅那を見つめていた。
「羅那にお願いがあるんだ」
愛維は下駄箱を開け、ローファーを上品に履くと、肩に掛けている合皮のスクールバッグから一枚の紙を取り出した。
「ねぇこれ…羅那なら読めるよね」
愛維が差し出したのは──
「これ…」
小さな紙切れに、赤い文字が記された奇妙な手紙。
赤い文字は紛れもなく、死者の文字──鬼界文字だ。
"未来を知りたくば来い"
羅那はその一文を、つい読み上げてしまった。
読み上げてから、しまったと息を呑んでしまう。
これは。
この一文は、愛維の前では読むべきではなかったと後悔した。
「未来?それってさ…例の未来予知の妖怪なのかな!?」
愛維が興奮気味に食い付いてきた。
「ど、どうだろう…でもさ…このあいだ調べたけど、くだんは見つからなかったから…デタラメじゃないかな」
なんとか愛維からくだんを引き剥がそうとする。
「そうだよね…」
愛維はそう言って少し肩を落とした。
「それにしてもこれ…今日見つけたの?なんでこんな…」
羅那が気になるのはむしろこの手紙の存在自体の方だ。
「うん。下駄箱に入ってた。見たことある文字だから羅那なら読めるかなって。最初は怖かったんだけど…よく見ると"未来"って文字が書いてある気がしてむしろ興味が勝っちゃってさ」
鬼界文字の中にもこの世の言語と近い形を持つ文字もある。
未来もその一つだ。
──なるほど。それで愛維はこの手紙を必要以上に恐れていなかったのか。
「まぁとにかくさぁ…くだんは置いておいて…これからのこと考えたほうが良いかもね。こんな手紙が届いてたんだから」
「関係…あるのかな。やっぱり…旧校舎と」
愛維は旧校舎のある方角を向いた。
「あるかも知れない…けど、今は無闇に動かないほうが良いと思う。やれることは…やらないとだけど」
上手く安心させられる言葉を掛けられない。
「そうだね。うん。あーあ…くだんがいればなぁ」
愛維の嘆きが昇降口にぼんわりと響く。
予言獣くだん。未来を言い当てると言う半獣半人の妖怪。
噂によれば、くだんは旧校舎に出ると云う。
その噂を検証するため、羅那たちはあの日、旧校舎に乗り込んだのだ。そして今回の事件が始まった。
全ては"くだんの噂"から、否──愛維のくだんへの執着から始まったのだ。
くだんへの執着。それは即ち、未来を知ることへの執着だ。
危険を冒してでも未来なことを知りたかったのか。
未来が、不安なのか。
未来の何が不安だと云うのか。
ひょっとすると、女王の機嫌を損ねるかも知れない。それでも羅那は、これほど未来に執着するその理由を聞いておきたかった。
他に誰もいない今なら聞けるかも知れない。
「愛維ちゃんにはさ──」
決意を固める前に、口はもう動いていた。
「──そんなに知りたい未来があるの?」
昇降口に響く自分の声がやけに大きく聞こえた。
愛維のまつ毛の長い煌びやかな目がハッとしたように見開かれたままじっと固まっていた。
愛維の黒目が、きょろきょろと瞳の中を泳ぐ。
「ぎゃ、逆にさぁ──」
愛維が固まっていた表情を崩す。
「羅那にはないの?」
愛維は、はっと息を吐き出し笑みを見せた。
その笑顔は、羅那の記憶には無いなんだか燻んだものに見えた。
「私は…。私は…」
私は。
未来のこと。
この先に何が起こるかを知るのは、怖い気がする。
今、この奇妙な事件に巻き込まれている状況だから尚更そう思う。
この先を知ってしまうなんて。自分がいつも必ずしも良い結末を辿るなんて限らない。だから、それを知るのは怖い。
そう言った。
「でも…先に知っていればさ、変えられるかも知れないじゃん。未来も」
愛維は小さく拳を握り締めた。その小さな拳には力が入っていない様子だった。
「そうかもね…」
そうかも知れない。
残酷な運命が待っているとしても、抗えば少しはマシな結末になるのかも知れない。
夏の呪詛事件だって、あのまま何もしなければ羅那たちは呪詛に飲まれて全滅していたかも知れない。
でも、羅那たちは抗った。抗って、抗って、今がある。
多くの犠牲者を出したあの事件の結末が決して最善ものだったとは思わないけれど、何もしないよりはマシな結末にはなったと思う。
とは言え、あの事件に"神"が関わっていた以上、どこまで羅那たちの足掻きが運命を動かしたのかは分からない。
もしかすると、全ては羅那たち人間の理解の及ばぬ存在の掌の上で起こったものだったのかも知れない。羅那たちの足掻きも含めて──。
羅那はあの呪詛に"抗わなかったという未来"を知らない。だから、どうとも言えない。
でも。
愛維のように前向きに考える方がきっと幸せだ。
「やっぱりさぁ」
愛維が下駄箱の戸を閉めた。
「私の未来は明るいんだってそう思いたいし、それを知っておきたいよね。だから、暗い未来なら…変えたいじゃん」
愛維が両手を広げて微笑む。
やはり少しばかり、こわばった笑みだ。
羅那と愛維は昇降口を出て校門を潜った。
「あ、そうだ」
愛維は何かを思い出したかのようにスマートフォンを開いた。
「これ…羅那だけに教えるんだけど…すごい話があるんだよね!」
羅那の前に、スマートフォンの画面が突き出される。
それは、愛維のSNSのダイレクトメッセージ画面だった。
「これって…」
メッセージの差出人は、どこかの企業のようだった。
「よく聞く噂の企業案件ってやつ!お仕事だよ!羅那からすると珍しいものじゃないかもだけど…私、初めて来たんだよね!」
愛維は眩しい笑顔を見せた。見慣れた笑顔だ。
「すごいね…!」
続けて、おめでとう!と言おうとしたけれど、上から目線だと誤解されるかも知れないと思い、飲み込んだ。
「そんなに大きい会社じゃないんだけど…これでやっと羅那のこと追いかけられるよ!」
「いや…別に私なんか…」
「えー?だって羅那っていろいろお仕事してるじゃん。雑誌とか…。ほら、この前はイベントの広告にも出てたし?」
呪詛事件以降、様々な方面から仕事の依頼が増えた。
頼まれると断れない性格だから、羅那は色々な仕事を引き受けてしまう。あまり気が進まなかった心霊イベント広告出演の仕事もそうだ。
「心霊系だけだよ。私はその畑の人間だから…愛維ちゃんはもっと幅広くやれると思う」
「ありがと。でもさ、羅那もいつかはその心霊の枠から飛んでいくと思うよ。だって羅那、可愛いじゃん。しかも……頭も良いし。他の世界も放っておかないでしょ。だから…絶対そうなると思う」
愛維は力強くそう言った。
「ありがとう…」
褒め殺されても何を言えば良いのか分からない羅那はただそれだけを言った。
羅那がなんとか浮かべた笑顔を、愛維は覗き込むようにして見ていた。
「ごめんね」
「えっ…」
予想としていなかった言葉に羅那の背筋が伸びる。
「私ってうざいでしょ?」
愛維が前を向いて少しばかり夜空を見上げた。
「うざいって…そんなことは…」
「嘘はダメ」
愛維は笑って、人差し指で羅那の口を抑えた。
「うざいでしょ。私が羅那や…他のみんなでもそう思うよ。チビなのに偉そうだし、ワガママだし、友達以外に当たり強いし、声高くて煩いし?」
愛維は思いつく限りの自分の悪口を自分で言って首を傾げた。
「私って多分、いない方が良い。私がいない時の方が絶対、のびのびしてると思う」
「それは…」
否定できなかった。
現に、この前、愛維がいない日の教室の様子を思い出すと──否定はできない。
「そんなことないと思うよ」
馬鹿なくらい中身の無い、くだらない言葉を吐いてしまう。
「優しいね。羅那は」
愛維はそう言って、知ってたけど、と付け足した。
「でも…こうやって生きるしか…ないんだよね」
愛維はふぅと息を吐く。
「あるべき自分じゃなくて、ありのままの自分でいるためには今のままでいるしかない」
「そうなの…?気になることがあるなら…ちょっとずつ変えてみても…」
「どうかな。こういうのって…変えられないものなんじゃない?」
愛維の口端が僅かに上がったように見えた。苦笑したのか。
「ううん。きっと変えられると…思う…」
声が震える。
人は変われる。
そうだろうか。
そうじゃ無いから、あの呪詛事件は起きたのではなかったのか。
「もし、うわべだけでも変われたしても…根っこの部分って変わらない気がするなぁ私は。というか、変わりたく無いって思っちゃうよ。みんなそうなんじゃない?だから結局、変われないんだと思う。周りのために自分を変えるなんて…そんなの私…耐えられないよ」
愛維はマフラーに少し顔をうずめ、白い息を吐いた。
羅那と愛維のローファーの足音がこつこつと夜道に響く。
「私ってずっとこうだったから。これがうざいって思われるのに気づくのが遅過ぎたのかな。もっと昔なら…変えられたのかな」
愛維の眉がぴくぴくと震えていた。
女王は羅那が思っているよりもずっと前から玉座に座って生きてきたのだ。
そしてどうやら玉座から王国を見下ろす生活が長過ぎて、変えることのない根っこが玉座に張ってしまっている。
「まぁ今更、変わろうなんて思ってないよ。私は私。やりたいようにやる。夢もあるしね」
玉座から伸びた女王の枝は今、学校という王国の
空を突き抜け、もっと広大な社会へと触手を伸ばしている。
周りからどう思われようとも、女王という大木はそれを気にすることなく伸びていくほかない。
さもなくばへし折れるか。
それが長年女王の玉座に座り続けてしまった者の宿命なのだ。
それは、楽しいのだろうか。
いや、きっと楽ではないのだろう。
王国を見下ろすことも、それを統治することも。だから愛維はもっと広い世界へ飛び出そうとしているのだ。
「羅那だけだよ」
愛維は立ち止まり、羅那の方を向いた。
「羅那だけが、私のこと分かろうとしてくれてる。ありがとね」
愛維は、ただ真っ直ぐに羅那を見て、言った。
そこにあの眩しい笑みはなかった。
見慣れない、落ち着いた眼差しが羅那に向けられている。
いつもは眩しくて煌びやかな愛維の目を直視など出来ないのに、不思議と今の愛維の目は、痛くない。
「そうかな…」
ほとんど口には出していないけれど、愛維のことはあれやこれや考えてしまう。
でもそれは、愛維を思ってのことなのかは、分からない。
「でも…ありがとう…愛維ちゃん」
羅那も、愛維の目を見つめていた。
このとき羅那は、愛維の瞳が少し青みがかっていることに初めて気づいた。
こんなに綺麗な色をしていたんだ。そう思った。
「間違いないよ。私、人を見る目はあるから」
愛維は自慢げに笑って何故か顔の前で拳を握り締めた。
その時だった。
「あっ!」
愛維はそう言って震えているスマートフォンの画面を確認した。
誰かからの着信のようだった。
画面を見た愛維の顔が一瞬、曇った──ように見えた。
「ちょっとごめんね」
愛維は羅那に背を向け、電話に出た。
「トキネちゃん。今夜──」
スピーカーフォンになっていたのか、電話の向こうから野太い男の声がした。
「あっ…」
愛維は慌てて電話を切った。
しばらく愛維は、スマートフォンをじっと見つめて固まっていた。
「大丈夫…?」
「あ、ごめん。なんか知らない人だったみたいでさ…」
愛維はあははと笑ったのだが、それはまた彼女らしくないぎこちない笑顔だった。
◯
──羅那だけが、私のこと分かろうとしてくれてる。
愛維の言葉が頭をよぎって、灯りを消してベッドに入ってからもしばらく羅那は愛維のことを考えていた。
──私だけ。
そうなのか。
乃恵は。叶夢は。澪は。歌巴は。
愛維からあの言葉を掛けられた時、真っ先に思い浮かんだのは乃恵の顔だった。
乃恵は常に愛維の隣にいる。羅那の中であの二人はセットである。
クラスも一緒だし、お昼ご飯の時は常に向かい合っている。
乃恵が一番の理解者──ではないのか。
愛維たちと友人になる前は、愛維と乃恵が並んで歩いていて楽しげに話しているところをよく見かけた。
でも最近は、そういった場面は見ないような気がしてきた。
気のせいかも知れないけれど。
あの二人は、実は知らないところで喧嘩をしているとか──。
でも、普段の様子からしてそんなふうには見えない。
第一、乃恵は赤電話から愛維を助けていた。
──いや、喧嘩相手でも流石に命の危険が迫ってたら助けるか…。
考えれば考えるほどに、目が冴えてくる。
部屋の暗闇に目が慣れてきた。
そもそもあの言葉は、愛維が自分を気遣って掛けてくれただけかも知れない。
愛維が本当に自分のことを理解者だと思ってくれているとしても、乃恵のことを信用していないとは限らない。
考え事をしているとやはりどうも寝付けない。
羅那は仕方なく、原稿の続きを考えることにした。
そうすると、不思議なくらいよく眠れるのだ。
目が覚めた。
瞼はまだ重い。
まだ寝ていたい。そう思ったとき、羅那はしばらく眠っていたことに気づいた。
頬に吸い付くような冷たくて乾いた感触が心地悪くて、羅那は顔を上げた。
"真っ赤"が見えた。
目を照りつけるような真っ赤が、真っ赤な空が広がっている。
羅那は、自分の表皮に触れている刺激が、覚えのない刺激であることに気づき、飛び上がった。
羅那は柔らかく、温かな布団に包まれていたはずなのだ。
羅那の頬に、胸に、腕に、そして今、足の裏に感じる感触というのはざらざらと乾いたものだった。
岩のような──。
ただその岩はとても黒い。光を全く反射しないような黒さだ。
岩は果てしなく広がっている。
「なんでっ…」
羅那は自身が生まれたままの姿であることに驚いたが、声が出ない。
やはり辺りは真っ赤である。
羅那のいる真っ黒い岩の奥──そこに、いくつもの黒い岩が積み上げられた岩の塔が聳えていた。
その頂点に、何者かがぽつんと立っている。
漆黒の外套を纏った何者かは、死体とも生き物と
も取れぬ存在であった。
女──のように見える。
女に髪はない。剃ったとか抜けたとかそういった表現は適切ではないように思う。それは元々、生えていなかったかのような頭皮の質感である。
女は縦に真っ直ぐ──裂かれていた。
喉から腹部までを切り開かれ、その悍ましい状態を保つべく、ワイヤーの付いた金具が食い込んでいる。
開かれた体内で蠢く臓器には、無数の釘が打ち込まれていた。
艶かしく青白い太ももの内側からは、無数の刃が顔を出している。
痛みの権化。
その女のことを、そう言い表す他になかった。
震えが止まらない。それなのに、冷や汗が一切、吹き出さない。
痛みを具現化したような女の向こう側に、何かがある。
それは巨大な白い岩。
否。
羅那は数歩、後退りをし、それらがいくつかの石像──女の顔であることを理解した。
片目を閉じた者の顔、
巨大な武器を握り締め歯を食いしばっている者の顔、己の細長い人差し指に接吻をしている者の顔──。
それらは、とてつもなく大きい。
大きいというか、広大なのだ。
一つ一つがまるで、島のようである。
──驚くことはない。
痛みと苦しみの権化はそう言った。苦しみに満ちた震えた声であった。
──私が現れたのは、単にお前が多くの死に触れただけのこと。魂が引き裂かれる場に遭遇し過ぎただけのこと。そして──。
女は、白い目で羅那を見下ろした。
──お前が…お前たちが、"贖(あがな)う者"の、"誓いの証明"となる日が近いからだ。
羅那はただ口を開いたまま立ち尽くしていた。
女の言っていることがまるで頭に入って来ない。
──"あの者"が自らの犯した大罪を償い、永遠に"贖う者"と"成る"ためにお前たちはその償いの証明となる。
ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら女は両手を広げた。
──証明は、生者の命をもって示される。
血や管が、肉や臓器がくちゅくちゅと音を立てて絡み合い、女の裂かれた肉体が閉じていく。
──案ずるな。証明であるお前たちの死など…贖う者の罰に比べれば──。
真っ赤な空に轟音が轟き、女の身体が再び、引き裂かれた。
女は雷鳴の如き絶叫を上げた。