ハッピーReバースデー
🕑 Added 2022-03-05 12:14:37 +0000 UTC
カーテンから漏れ出す朝日に目を覚まし、それからほんのりとした高揚感を抱いている自分に気がついた。
3月3日。今日は俺の誕生日だ。16歳にもなったというのに未だ自分の誕生日を意識してしまうだなんて、なんとも気恥ずかしいことだ。
「おめでとう、柚輝」
リビングに降り立った俺に対するお母さんからの第一声がそれだった。
そのお祝いの言葉には誕生日という文字が抜け落ちていたが、意味するところは容易に察しがつくものなので普通にお礼を返すだけして朝食の席に着く。
いつも通り、ご飯にウインナー、目玉焼き、それから味噌汁が並んでいる。俺は朝から比較的ガッツリ食べるほうなので、これでも少し物足りないくらいだ。
「ごちそうさま」
それらを軽く平らげて、俺は足早に身支度を始めた。
髭を剃り、寝癖を直す。毛が深く癖毛の強めな俺にとって、この辺の手間はわりかし面倒なものだ。
顔を洗って歯を磨き終えたら自室に戻り、着替えを済ませる。インナーシャツは寝巻きのままに、ワイシャツに袖を通したらスラックスを履いて、ベルトを締めて固定する。首元でネクタイを結び、上にブレザーを羽織れば出来上がりだ。
改めて、今日は俺の誕生日だ。まあ、だからといって昨日の自分と何かが違うわけでもない。洗面台の鏡に映る自分の姿は、なんの変哲もないごく一般的な男子高校生で変わりない。
必要な荷物をカバンの中へと放り込み、リビングで弁当を受け取って、靴を履いて玄関に立つ。
「いってきます」
ちょっとした特別感のある、けれどいつもとほとんど変わらない1日が、こうして始まった。
×××
というわけで、学校でも特筆すべきイベントは起こらなかった。
それでも付き合いのある友達や部活の先輩が祝いの言葉を口にしてくれたり、親しい関係の人たちからプレゼントに菓子や漫画を貰えたりするだけで、十分に嬉しい。
あとは彼女とプチデートを楽しんでから帰宅して、いつもより豪華な晩飯を食べて、それで終わりだろう。
歳を重ねるにつれ冷めていく自分を感じてしまうようにはなったが、まあ今年もよく堪能させてもらった。強欲はいけない。
そんな相応の満足感を噛み締めていた放課後、珍しいことに普段は接点のないクラスメイトに声を掛けられた。
「岩城君、今日が誕生日なんだってね」
名前は確か堀内直人。主張するところがなく、催し事でも目立つことのない、印象の薄い男子生徒だ。
「僕からも、誕生日おめでとう」
「お、おう。サンキュ」
「……」
「……」
そして会話は途切れた。
しんと静まり返る教室。いつの間にか俺と堀内以外の生徒は帰るか部活に出向くかしていたらしかった。
(なんなんだ、こいつ)
堀内が何を考えて話しかけてきたのか、皆目検討がつかない。
そんな意味不明な状況の中、ようやく堀内がその口を開いた。
「誕生日ってさ、特別感があるよね」
「へ?あ、ああ。そりゃ、まあ」
「けど実際には、そこまで普段とは変わらない1日に終わるよね」
「……見ようによっちゃ、そうかもしれないな」
「でもさ、せっかく年に一度の記念日なんだからさ?もっと特別な……"誕生"の意味を実感できるような、そんな1日にしたくない?」
いまいち要領を得ない話を続ける堀内に、俺は結論を促した。
「要するに何の話なんだこれは?お前が何を言いたいのか、俺にはいまいち分からないんだが……」
「なぁに、ただ君に面白い誕生日をプレゼントしようってだけの話さ。もしそれがつまらなかったんなら、それこそ"面白くなるまで"ね」
そして堀内は俺の額に手をかざし、しばらくすると俺に背を向け一言、「これがほんとの、誕生日プレゼントってやつさ」と呟いてそのまま教室から出ていってしまった。
「……なんだあいつ」
その後、俺は交際中の彼女と2時間ほどのデートを楽しんだ。
ちなみに彼女からは紺色のジャケットをプレゼントされた。
『柚輝くん大人っぽいから、絶対似合うと思うんだよね!』
それから着用を強いられ、やっぱりカッコいいとか次のデートにも着てきてとか言われ続け、こそばゆさと嬉しさとを味わいながら帰路に就いた。
帰宅してからはまず風呂に入り、それから俺の好物が並んだ食卓を腹が膨れるまで満喫し、最後に友人とオンラインゲームで日付が変わるまで遊び倒して、俺の誕生日は終了した。
(そういえば堀内のやつ、結局なんだったんだ?)
ふとそんなことを思い浮かべながら、俺は眠りに落ちていった。
×××
目が覚めた。
誕生日から一夜明け、またいつもの毎日が始まることに気怠さを覚えながら、俺はむくりとベッドから起き上がる。
「……?」
ぼんやりと開いた視界には部屋に置かれた家具や小物が映る。ただ、その様相に違和感を抱いた。
例えばカーペットや寝具。寒色を基調としていたはずのそれらは今、暖色に染まって華やかな模様さえ浮かべている。
例えば机の上。乱雑に放られていたはずの漫画雑誌は本棚へと整頓がなされ、ただ見覚えのない背表紙がちらほらと確認できる。
例えばドアに掛けられた制服。着慣れたはずのそれはどうしてか形を著しく変容させて、まるで女子制服のようにさえ見える。
「うーん……?」
寝ぼけ眼をこすってみても、それらは拭われずなお存在し続ける。
すると、なにかが俺の視界を遮った。
さらりと上から垂れてくるそれは髪の毛のようで、けれど短髪な俺に生えているはずのない、長くて艶やかな黒髪だった。
邪魔なそれらを掻き分ける俺の両手は、ひどくちんまりとしたものに見えた。皺も染みもない細く品のある指先は色白で、まるで女の子の手みたいだ。
「……」
視線を落とせば、そこにはやや小ぶりなメロンほどの膨らみがふたつあって、俺の胸部に付着していた。シャツ越しに触れてみると少しごわごわとした感触があって、そして膨らんだ胸部からは揉まれている、すなわちこれらが自らに備わっている身体の一部なのだという感覚まで返ってきた。
シャツをめくる。するとそこには、控えめに言っても扇情的な双丘があって、それらは楚々とした水色のブラジャーに包み込まれていた。
「おいおい……」
思わずそう呟いた俺の口からは、普段じゃあり得ないソプラノの声が響いた。
俺は慌てて股間に手を当てた。女子にしてはスポーティな、けれどはっきり女物だと判別できるショートパンツの内からは、存在するはずの盛り上がりが感じ取られなくなっていた。
冷や汗を拭ってから、そこに手を突っ込んだ。やたらと肌に張りつく下着を指先で押しのけて、あるべきものを確かめに。
しかしそんな俺の手は、虚しくもその中で空を切った。あるべきはずのものはなく、すっかり平坦になった股間部には、代わりに一筋の溝が出来上がってしまっていた。
「そんなわけ、あるかよ……」
脳裏をよぎる荒唐無稽な可能性。
けれどそれが俺の身に起きた事実なのだと理解するのに、そう時間は掛からなかった。
どうやら俺は、女になったらしかった。
朝の身支度をすべて済ませて、俺は身なりにおかしなところがないかを、以前にはなかった自室の姿見で確認してみる。
鏡というのは、言うまでもなく目の前にあるものをそのまま映す道具だ。当然、自分がそこに立っていれば、鏡には自分の姿が確認できるはずだ。
ところが俺の見た限り、今目の前の姿見には可愛らしい女子高生の姿が映し出されている。
肩まで伸びた、絹のように美しく揺れる後ろ髪。横髪は耳に掛けられていて、清潔感を感じさせる。ヘアピンで整然とまとめられた前髪からは繊細な一本書きを思わせる形のいい眉が姿を見せ、その下に位置する大きくぱっちりとした目は時折り二重瞼に遮られ、連動して萌え立つ睫毛が上下に揺れる。
すらりとした上品な鼻立ちに、瑞々しく、どことなく艶やかな桜色の唇。
そしてそれらをまとめるのは小ぶりにしてあどけなさを残した、けれど顎先にかけてよく締まった柔和ながらも端正な顔つき。頬はそのきめ細かく透き通るような色白の肌に朱を差して彩りを見せる。
そこから細首をたどると、男とは思えない華奢な胴体へと行き着く。幅の狭い撫で肩からは筋肉を脂肪に置き換えられた女子らしい細腕が続き、さらにひ弱そうな手が力なく半開きの状態。
胸は新たな役割を持って大きく膨らみ、重力に垂れるのを下着に支えられながら強くその存在感を放つ。
着用者が女子であることを判然とさせる学校指定のプリーツスカートからは端麗な細脚が顔を覗かせ、加えてすらりとしたふくらはぎが紺のハイソックスに包まれることで、スタイルの良い下半身と、膝回りにかけては制服姿の女子に見られる絶対領域までもが形成されていた。
全体的に柔らかな印象を抱かせる、丸みを帯びた輪郭の身体。そしてそれが女子相当の衣服に包み込まれることで完成する、かつての俺では成り得なかったはずのもの。
そんな女子高生という存在が、まさしく今の俺だった。
ここに至るまでの経緯を、簡単に説明しておこう。
目が覚めて自身の異常を確認してから、俺はまずリビングに降りた。家族にこの状況を説明するためだ。
ところがお母さんもお父さんも平然としていて、まるで俺が初めから女だったみたいに接してきたのだ。
『おめでとう、ゆづ』
お母さんのその言葉の意味を理解するのには、さすがに時間が掛かった。
つまりどういうことかというと、"この世界の俺は女"で、そして"今日は再び3月3日"なのだ。朝食の最中、混乱する脳を懸命にフル回転させ、話を適当に合わせながらもそれとなく聞くべきことを聞き、さらに自室で持ち物を漁ってようやく確信に至ったことだ。
生徒手帳には『岩城柚月』と記載されていた。俺の名前は柚輝だから、俺が女だったら実際こういう名前にされていたのかもしれない。
趣味やら雑貨品も女子寄りなものに置き換わっていたし、スマホを開いてホーム画面に映し出された、女の自分とクラスメイトの別段仲良くもなかったはずの女子とがピースまで浮かべてにこりとしている写真を見た時はさすがにダメージが大きかった。
自分じゃない自分が、自分の知らない世界を形成している。そしてそんな世界を別人である俺が押し付けられているこの現実に、俺は思わず怖気を震った。
そういえば同じ3月3日だというのに朝食はパンとサラダになっていた。あれも今にして思えば性別の違いが細かいところまで反映された結果だったのかもしれない。
幸か不幸か、SNSを確認することで大体の人間関係や俺自身の人となりは理解することができた。どうやら現在の俺もそこそこ社交的で明るめな性格だそう。
ただ、日常的なやりとりの相手はやはり女子になっていた。当然、仲の良かった男友達とは会話どころかアカウントの交換すら済ませていない状態だ。
その他にも部活は女子バスケ部に所属しているだとか、成績は以前と変わらず中の上だとか、先月は女友達と旅行に出掛けていたことだとか、置かれた立場を把握するのに必要な情報から、他愛のない情報までを読み取って、最後に俺はこう結論づけた。
「堀内が、なにか知ってるな」
女の俺が特に頻繁に会話を交わし、いかにも仲睦まじそうにしている相手が堀内だった。さらにとんでもないことに、俺と彼とは男女の交際関係にあるらしい。
そんな堀内は昨日、俺に対してなにか意味深なことを言っていたし、他に俺の置かれた状況の原因らしい原因にも心当たりがない。少なくとも、無関係ではないはずだ。
試しに何度か電話を掛けてみた。けれどなぜだか繋がらない。
「……」
現状の立ち位置は理解できたつもりだが、堀内の意図が読めない段階で下手な行動は取りたくない。
以前、なにかの本で読んだことがある。自分以外が正常とは言い難い環境下では、異常に溶けこむこともまた生存に資するものだと。まさかそれをリアルで実践する時が来るとは思わなかったが、用心に越したことはないだろう。
というわけで俺は周囲に怪しまれないよう、とりあえず岩城柚月として登校し、頃合いを見て堀内に接触する方針に決めた。女にされているとはいえ、今日が昨日の焼き直しだというのなら、俺には放課後にあいつと1対1で対面する時間が用意されているはず。
首元に赤いリボンを結び、ブレザーを羽織る。
必要な荷物をカバンの中へと放り込み、リビングでいつもより一段小さくなった弁当をお母さんから受け取った。
「……あ」
ふと部屋の隅を見ると、ひな壇が飾られていた。
今日は3月3日だ。俺の誕生日であると同時に、世間一般でいえばひな祭りでもある。
ひな祭りとは言うまでもなく、女の子の成長や健康を願う催しだ。生憎この家は俺と両親の3人家族で、俺には姉も妹もいないから本来であれば雛人形なんて飾られるべきものじゃない。にも関わらず絢爛と並び、装飾の施されたそれらははっきりと存在していて、さらに名前旗を見るとそこには『柚月』と刻まれていた。
靴を履いて玄関に立つ。
「……いってきます」
ドアを開くと秋風がスカートを揺らし、露出した素足を寒々とさせた。撫で肩に掛けられた鞄は早々にずりずりと位置を落としていき、仕方なく手に提げて足早に学校を目指す。
俺にとって2度目の誕生日が、こうして幕を開けたのだった。
×××
「柚月、誕生日おめでとー」
「おめでとー!」
「ゆづももう結婚できちゃう歳かぁ」
「堀内くんなんかにうちらのゆずはやらんよ」
「お父さんか。てか気が早いわ」
登校して早々、親しくなかったはずの女子たちからお祝いの言葉を貰い、ついでに気が滅入る冗談まで口にされた。
「はいこれ。柚月の好物、チョコレート」
「あ、ありがと……」
俺は甘いものを好まないが、女の俺はそうでもないようで、プレゼントは瞬く間に糖分まみれになった。
「……」
さらにいうと、お菓子は昨日(と表現するのは語弊があるかもしれないが)も貰ったものだが、リップクリームや、あげく香水なんて小洒落たものまで渡されてしまい、男女の慣習の違いには困惑せざるを得ない。
そういった社交をひとしきり済ませるとチャイムが鳴った。授業はさすがに昨日とまったく相違なく、ただ俺自身は気もそぞろでろくに身が入らない状態だ。
……というだけで済めば、どれほどよかったことだろう。
昨日は2時間目に体育があった。当然、昨日の再現である今日にも体育は存在する。
(男の俺が女子に混ざってってだけでも落ち着かないし、なにより……)
着替えはどうするのか。今の俺は女だし、女子更衣室に足を踏み入れたところで咎める人はいないわけだが……それはさすがに良心が痛む。
(……いや、別に悩むほどのことじゃないな。トイレで着替えればいいだけだ)
と、そこでまた問題に気づかされた。
(俺、女子トイレを使うのか?)
当然身体は女子だし、制服も女子のものだ。そんな俺が男子トイレに入ろうものなら1発アウトに違いない。
「……」
朝にトイレは経験済みだ。あの尿道を辿る感覚もない一瞬で溜め込んでいたものが決壊する女子特有の放尿や、それをなす変わり果てた股間部も、俺は一度経験し、また目にもしている。
けれどあれは自宅のトイレでしたものであって、言うなれば男女共用トイレ。女子しか入れない学校の女子トイレを、男の俺が利用していいものだろうか。
そんなこんなで俺が悶々としていると、不意に背後から腕を引っ張られ、
「えっ?な、なんだ?」
「ゆづー、はよしないと着替え間に合わないよー」
「ぼーっとしちゃって。世話が焼けるなぁ柚月は」
「更衣室へレッツゴー!」
「えっ?ちょっ……待っ……!」
抵抗を試みるもまったく拘束を解けない。2人を相手にしているとはいえ、そのどちらもが一般的な女子高生。だというのに、男の俺がなされるがまま。
(くっ!なんでこんな……!)
その原因にはすぐ察しがついた。今の俺は女だから、前みたいに力が出せるわけじゃないのだ。この身体はひ弱な女子だから、女子相手でも複数人の力には敵わない。
そして俺は、問答無用で男子禁制の部屋へと連行されてしまった。
俺という存在がありながら平然と裸体を晒す女子たちに囲まれ、自分もまた女体を露わにし、やや敏感になって衣擦れが気になる素肌やシャツを下から盛り上げる乳房に気を取られながらも、なんとか体育着へと着替えを済ませた。
「柚月も髪伸びてきたし……ほらっ!これでどう?」
そういって手際よく俺の後ろ髪を束ねた女子が、手鏡を俺に向けてきた。
そこには今朝確認したはずの自分とはいくらか印象が変わった、ポニーテールにしたことで快活な雰囲気を醸す女の子の姿があった。
「これで動きやすくなるでしょ!」
同性の距離感からか、彼女は俺の耳元で朗らかにそう言った。
まるで彼女たちを騙してでもいるかのような状況に、俺は罪悪感でいっぱいになった。
以前の感覚のまま身体を動かした俺は、まあ散々な目に遭った。
「今日はなんか……ドジっ子だったね」
マイルドにそう表現されて、苦笑いまで浮かべられてしまった。屈辱だ。
ともあれ峠は越えた。
その後もいくらかのアクシデントはあったものの、無事に放課後を迎えることができた。
そして、今この教室には俺と堀内のふたりきりだ。
「聞かせてもらうぞ。これはいったいどういうことだ?」
「聞かせてあげよう。僕が君に何を施したのかを」
そして全貌が明らかになった。
堀内は科学では説明することができない謎の力を秘めていた。今回それを用いることで、俺を女へと変え、さらに俺の誕生日が巻き戻るように仕組んだ。
誕生日は延々繰り返される。24時になれば俺の意識はシャットダウンされ、また同じ日に逆戻り。
その効果が解除され明日を迎える方法は、『俺が誕生日に相応しい"最大限に満足な1日"を過ごすこと』、あるいは『俺が誕生日に相応しい"新たな人生の一歩"を踏み出すこと』。
抽象的な物言いだが、堀内はそれ以上説明してくれなかった。ただ、それさえクリアすれば世界は進行を再開するし、俺も男に戻れるのだという。
さらに俺をこんな目に遭わせる理由を尋ねた。するとこいつは、ただの酔狂だと答えた。女に変えたのも、悩み戸惑う俺を見て好奇心を満たすためだと言い切った。
「まあ、僕も人並みに男の子だから、彼女という存在に興味があったというのもあるけれどね」
ここまで理不尽な話を聞いて、腸が煮えくり返らない当事者がいるだろうか。仮にいたとして、俺はそこには含まれなかった。
堀内の顔面を、力の限り殴りつけようとした。
ところが、それは叶わなかった。
「無駄だよ。君は、この世界で岩城柚月として相当とみなされた行動以外は取ることができない」
つまり今の俺は過去に岩城柚月がたどってきた轍に沿った行動しか取ることができない。女の俺を基準にして現実的ではない行為を選択しようとすると物理的にストップが掛かってしまうのだという。
「僕に好意を抱いていて、僕の彼女である君が、僕に殴りかかる理由なんて"この世界には存在しない"んだ」
そして堀内は笑った。
「だからこそ、こんなことをしても、君は僕を拒めないだろう?」
「……んむっ!?」
堀内の行動に、俺は驚愕した。
俺を抱擁し、さらに唇まで重ねる堀内。
そして衝撃的なことに、俺はそんな堀内を突き放せないでいるのだ。身体が言うことを聞かず、ただこいつになされるがまま。
「僕は君の彼氏だからね。ハグもキスも、拒まれる理由なんてないのさ」
「お、お前っ……!」
「とはいえ」
と、堀内は俺を解放して一歩後ずさった。
「この繰り返される1日の内に僕が女子である君に過去の積み重ねを帳消しにするくらい嫌われるような悪事でも働けば、君は僕との関係においては自由になれるだろうけどね。ま、そんなことがあったとしても、君が今日という日を抜け出せない限りは振り出しに戻され続けるだけだ……僕からの話はこれでおしまい。せいぜい頑張って最高の誕生日を謳歌してくれたまえ。もしくは、相応の門出を」
堀内は去っていった。
そこに取り残された俺の横髪が、窓から吹き抜けた隙間風を受けて柔らかくそよいだ。
×××
朝日に起こされケータイを開くと、やはり変わらず3月3日、誕生日のままだった。
昨日の経験を踏まえてとりあえず確実に言えることは、男女の性差による変更点こそあるものの、大まかな流れは変わらないままだということ。
すなわち、俺自身が意欲的に最高の1日になるよう働きかけるか、新たな人生の一歩を踏み出すかしないといけないわけだ。
「新たな一歩、ねぇ……」
前者に関しては条件として容易に理解することができるが、後者の解釈は少し難しい。一般的な表現に倣うのであれば、例えば夢を抱いてそれに邁進する様なんかが該当するだろう。
しかし仮にその線で実現可能性を模索するとしても、なかなか不可能に近いと思える。というのも、俺は比較的無趣味な人間で、流行りの漫画を読んでみたり部活動としてバスケを嗜むことくらいはあるが、それらに没入するなどといった経験はない。新たな一歩を探すには、俺の人生は淡白が過ぎる。必然、前者をこなす方針で進めるべきだろう。
それからは試行錯誤の日々が続いた。
まず、ひたすら娯楽に興じようと考えた。お小遣いを外で散財し、帰宅後は適当なゲームを選んで友達とオンライン対戦だ。
結論から入るが、これはうまくいかなかった。
一高校生のお小遣い程度じゃ遊びの幅に限りがあるし、ゲームの場合は相手になってくれるやつがいない。
……虚しさが響く言い方をしたが、当然俺にだってゲーム仲間の友達はいる。いや、正確に言うと"いた"。
現在、俺の交友関係は女子が大半を占めている。すなわち、仲が良く頻繁に遊ぶ関係にあった男子とは疎遠になっているのだ。
ないなら築き直せばいいと思った。ところが、柚月の行動規範に著しく悖る行為は堀内の力に邪魔をされてしまう。
ただのクラスメイトという関係で、大した会話も交わしたことのない段階で、何の拍子もなく異性をゲームに誘う学生が、はたしてこの日本にどれほど存在するだろうか。仮にいたとして、結局柚月はその枠に含まれないらしく、謎の力によって俺の意図した接触は阻まれてしまった。
であれば、女友達と遊べばいいのではないか。そう思い、過去のSNSから俺と仲の良いらしい人たちの趣味を調べてみるも、男の俺と嗜好が合うことは皆無で、やれファッションがどうとかスイーツがなんだとか、そういう話で持ちきりだった。これでは楽しめそうにない。
かつての彼女とは今でも結構な交流があって、よく遊びに出掛ける親友のような間柄みたいだが、当然同性として遊ぶだけらしく、また女子として遊ぶわけだから、さっきの子たちとあまり変わらず、最高の1日にするには見込みが薄い。
「はぁ……今日も駄目っぽいな、これ」
俺が女になってから既に10日が経つ。
できる限りのことは試したつもりだが、おそらく今日も失敗だろう。大した手応えも感じられず、もはや八方塞がりのようにも思える。
淀んだ心境で策を講じながら、俺は髪の汚れをブラシで落とし、オイルで頭皮をマッサージする。入浴前の事前作業だ。
柚月による行動規範は消極的な作用に留まらない。すなわち、俺が以前の俺のように行動することを許さないばかりか、彼女がこれまで続けてきたルーチンワークのようなものを俺に強制させる効果まであったのだ。
そのため、こんないかにも女子らしく手間の掛かる行為も俺の意思に反して身体が開始してしまい、風呂場ではコンディショナーやトリートメントまで駆使して、さらに上がってからは優しくタオルドライで入念に乾かすなどして髪の手入れを怠らない。
化粧水や乳液を用いたスキンケアまで淡々とこなし、おかげでここ数日は年頃の女子を無理やり演じさせられることにもいくらか慣れてきてしまった。
「どうすればいいんだ……うん?」
手持ち無沙汰にスマホをいじっていると、彼女だったはずの女子から連絡が入った。なんでも近所に新しく洋服店が出来たのだそう。
『ここのお店、可愛い服がいっぱいで驚いちゃった!柚月にも似合いそうなのがたくさんあったから、明日一緒に行こう!』
そして俺に着せる候補らしい服装をいくつか送信してきた。そのどれもがレディースだということはもはや言うまでもないだろう。
「はーぁ……」
実際、この身体はそこそこ容姿に優れている。端正な顔立ちにパーツもよく整っていて、スタイルもなかなかのものだ。あとは俺の趣味嗜好が女子でさえあれば、多種多様なファッションを女友達と一緒になって楽しめたことだろう。まあ、自分自身が目の保養になるという意味では、十分役得なのかもしれないが。
「……」
役得といえば入浴時に見る裸姿や更衣室での着替えシーンだ。罪悪感に苛まれながらも、やはり理性を保つことは難しく、とうとう目に焼き付けてしまうようになった。
仕方のないことだろう。彼女たちと同様に、俺もまた被害者なのだ。健全な男子高校生であれば、相応の性欲も抱いていて然るべし。
そんな取り留めのない言い訳をぼんやりと考えていた、その時だった。
「……?」
きゅんと、下腹部がこそばゆく疼き出すのを感じた。
「これって……」
女の俺は、性処理をしていたのだろうか。
同じ日を繰り返すということは、身体の状態も同じままでいるということだ。
無論、俺の精神面は日々更新され続けているわけだが、肉体に依存する『溜まる』という感覚に関しては、繰り返しの日々で蓄積されていくことはないように思える。
だというのに、俺の理性に突如として襲いかかったこの感覚。むらりとして、性的鬱憤を発散させたいと疼く股間部の昂り。
「……蓄積することは、ない」
逆に言えば、"解消されることもない"。もし3月2日まで、つまり今日まで岩城柚月がまったく自慰を行わず、あるいは経験があるにしてもしばらくご無沙汰していたとしたら、その清算は俺が被る羽目になる。
「……」
きっと先ほど思い浮かべた光景がトリガーになってしまったのだろう。
改めて言うが、俺も健全な男子高校生だ。だからこの身体になってからも女体を前にして劣情を催すことはあったし、言うまでもなくトイレや浴室で見る自身の身体に背徳的な興奮だって当然に抱く。
ただ、これだけ落ち着いた精神状態にあって、まさに至るに適当なタイミングというのは、度重なるループの中で今が初めてなのではないだろうか。
今日まで自らの胸や女性器に積極的に触れる機会といえば入浴時に体を洗ったりする程度で、つまり俺はまだこの身体になってから自慰を経験したことがない。
「……」
手をブラの内に滑りこませる。
恐る恐るその双丘に触れ、撫で、そして揉んでみる。
「……ん」
ぞわりと、神経が浮き立つような不思議な感覚。たどたどしい指先に形を歪まされる乳房は感受性に富んでいて、俺に淡く、けれど確かな興奮をもたらした。
ブラを外し上半身を曝け出す。ふるんと大きな胸が一度だけ弾み、それから重力に負けてやや垂れ気味に固定される。肌色そのままの白い球体、その中心には桜色に色づいた蕾のような突起物が浮き上がっていて、いつになく存在を硬化させ、またいつになく屹立しているようにも見える。
「……あっ」
先端を親指と人差し指でさすり、それから摘んでみたところで、俺の口元から嬌声が漏れた。それは俺の意思に基づかないもので、思わずそうさせるほどの刺激が脳に達したのだと遅れて気づいた。
乳房全体をふにゅふにゅと弄り続けていくうちに、昂りはますます増長していった。じとりと額に汗が浮かび上がり、前髪がそこに張りついて煩わしい。
やがて自然と指先に力がこもり出し、より乱雑に、より淫猥に乳首を嬲る。
「っ……」
仄かな痛みとあわせて快感が沸き起こる。男の胸ではまず味わえないだろうその甘美な信号をさらに求めて、俺は夢中になって手指を動かす。
「ん……ふぅ……」
自らの艶かしい吐息に倒錯感を抱いた。俺は男だというのに、まるで女みたいな声を自然に出した。その声帯に限らず、発声の仕方がいちいち男を誘惑せんとばかりに思えて一瞬困惑したが、押し寄せる快楽を前にそんなことはどうでもよくなってしまった。
「はっ、あはぁっ……ここ、も……」
そしていよいよ、ショーツに手を伸ばした。
平時であればまず固く閉ざされているべきはずのそこも主人である俺の意思には逆らえず、なされるがままに外気へと曝け出され、その身を情欲の帯びた細指に差し出した。
見慣れつつあったそれは既に愛液を滲ませ、女の色気を漂わせることで情事に歓待の意を表しているようだった。
もっとも、今その期待に応えることは叶わない。俺は女で、対になる男根はもうここには存在しない。
「こう、かな……?……あっ……♡」
初めは恐る恐るといった様子だった細く淑やかになった指々は、それからもたらされた悦楽を受け、徐々にその見た目に似合わない荒ぶりを始めた。濡れた肉壁を這って、最も"効果的"なスポットをひたすらに攻撃し、俺の身体はあまりの刺激に大きく跳ね上がった。
(気持ちいい♡気持ちいい♡)
頭が真っ白になるこの感じ……間違いなく、過去最高の法悦を俺にもたらしてくれている。
「……?」
だというのに、感情の昂りはそこではたと止まってしまった。
実際、とんでもない気持ちよさではあるのだ。ただ、どれだけ刺激を高めても、どれだけ続けていようとも、俺の肉体は満足に達しない。
「んぅ……なんでぇっ……」
寸止めのようなもどかしさに俺は苦鳴をこぼした。火照った精神と冷めゆく身体との乖離に、俺は一層女体を乱雑にしごいた。けれど、それからは平行線のままだった。
(こんなとき、女子はどうするんだろ……)
そんな中ふと、女子の立場という発想の転換が脳裏をよぎった。
俺が女子だったら、妄想上のこの身体は……。
「……っ♡」
逞しい男の身体に抱かれ、屹立した男根を自らに差し込まれ、その腰を振り振られるたびに喘ぎよがっていたのかもしれないと。
そう考えた途端に、膣内がきつく締まって、感度がこれまでの比にならない上がりぶりを見せた。
男根を模した指先は肉壁から逃すまいとばかりの締め付けを受け、それらが擦れる度に極上の快楽が脳内に押し寄せ、俺を耽溺させに掛かった。
「ひゃっ……あんっ……♡」
そんな俺の頭には、おかしな幻覚が浮かんでいた。
唇を交わし、無骨で大きなその手に乳房を揉みしだかれ、お互いに愛を囁きながら、性器を交えてひとつになる男女の情景。
そのひとりは今の俺で、もうひとりはーー。
「んっ♡あ……あぅ……♡」
荒唐無稽な空想に、しかし心も身体もボルテージは最高潮。
視界は明滅し秘部の愛液は溢れんばかりの状態。
「あんっ♡もぉ、むりぃっ……♡」
ビクビクと痙攣する身体に、最後の気力を振り絞って刺激を供与する。
胸を、股間を、自分自身の精神すらも妄想上の彼へと捧げ、そうして俺は、女として初めての絶頂を味わった。
「はあぁんっ……♡う、ふぅっ……♡」
女としての興奮。女としての快感。女としての幸福感。それらはいずれも男の頃に味わっていたものとはまるで別のもので、それでいて俺の脳内を女色へと染め上げるのに十分すぎる力を宿していた。
「……あ」
気力なく横たわり、ぐったりとした身体を捩ると、ふと姿見に映る自分と目が合った。
彼女は頬を朱に染め上げていた。
彼女は恍惚としていた。
彼女は満足げだった。
そして、"俺"は情欲に溺れた女の顔をしていた。
×××
ループが始まって1ヶ月が経った頃、物事の感じ方が少し変わってきたような気がした。
まず、女友達の出す話題に関心を抱けるようになり、以前より不思議と会話が楽しくなってきた。同じ1日でこそあるが、こっちから少し水を向けてやるだけで話の内容やみんなの行動はわりところころ変わるので、俺が女になって日の浅いこともあってか新鮮な毎日を過ごすことができた。
友達から誘われたショッピングに気が進まないなんてこともなくなり、付き合いだとか柚月としての行動制限だとかも関係なしに率先して付き合いを楽しんだ。
洋服店に入って可愛らしい服を着飾る友人を目にした際のことだった。目の保養と感じるより先に、
(いいなぁ、俺も可愛く見られたい……あれ?なんで受動態?)
などと、自分の思考に違和感を抱く機会が増え、けれどさらに日を追うにつれ、そんなわだかまりも徐々に薄れていった。
ところでそんな今の俺にとって、膨らみ続けている悩みがひとつ。
口にするのも恥ずかしい話ではあるが、唯一掛け値なしに俺を満たしてくれていたはずの日課である自慰行為が、初めの頃より俺を気持ちよくさせてくれなくなってきたことだ。
実際、感情が昂らないというわけではない。ないのだが、以前ほど乗り気になれない。
性欲が落ち着いたというのは、おそらく違うだろう。無論、引き継がれていく日々の自慰行為の記憶によるマンネリや、あるいは他の精神的な要因も否定できないところではある。けれど身体自体はかつてのまま何一つ変容していないわけで、その溜まった性欲を発散させることに身体が悦びを覚えないはずがない。
「……」
元男の俺からしたら、女の身体でする自慰は非常に強烈なものだった。
内側からぞわりと込み上げてくる快感が上限知らずに押し寄せてきて、理性を嬲り殺しに来るあの感じ。男の身体では経験し得ない甘美で、極上の刺激物だ。そしてそれは今だって変わっていないはず。
ただ、俺からしたら過去1番の性的快感であっても、"この身体"からして同様に1番だとは限らない。
思うに柚月は……女の俺は、"もうひとつ上の快感"を知っている。それに至って初めて、この悶々とした性欲は真に満たされることになるのだ。
けれどそれは男の俺にとって耐え難いことで、到底受け入れられるものではない。
軽く身嗜みを整えながらリビングへと向かい、もう何度目かも分からない母からの誕生祝いの言葉を受け取った。
×××
最初の誕生日から2ヶ月が経ち、すっかり女子高生としての生活が板についてきた俺だが、なお彼女らの習性にひとつだけ苦手と銘打って 差し支えのないものがあった。
「で、最近堀内とはどうなのよ?」
そう、恋バナである。
「お誕生日デートとか行ってきなよ!」
「えー?ゆづ、普段からひっきりなしにデートしてるんだし、今日くらい私らと付き合ってよぉ」
女子という生き物はスキンシップが過剰らしい。おいおいとわざとらしく悲しむ素振りを見せながら俺の後ろから抱きついてくる友人のひとりも、その例に漏れず。
「ちょっ……胸が当たってるよ」
「?それが?」
それがなにかとばかりにキョトンとする彼女の様子に、そういえば自分も今は女子なわけだから、こうして密着することに彼女側は抵抗がないものなんだなと再認識させられた。
「……」
そして、背中越しに伝わる柔らかな感触にさして羞恥や興奮を抱けなくなってきた自分がいることも。
「まあまあ。ゆづも華の女子高生なんだし、せっかく彼氏がいるんならそっちと一緒にいたいってなるでしょ」
「え?いや、私は別に」
「またまたぁ、日頃あれだけ惚気てるのにこんな時だけ気を遣わなくてもいいんだよ」
「……ちなみに普段の私って堀内…くんのこと、どんな風に言ってる?」
「はあ?」
馬鹿でも見るような目を向けられた。
いや、実際彼女の内心はその通りだったろう。俺の質問は記憶喪失か何かがその身に起きてでもいない限り出されない類いのものなわけだし。
ただ、少しだけ気になったのだ。あの男とこの世界の俺との関係が、周囲からどのように映っていたのか。文字だけのSNSや彼氏彼女という立場だけじゃ知れないリアルな間柄が、今の俺には気になってしまうのだ。
不承不承と語る子もいれば、ノリノリで黒歴史紛いのネタを掘り起こす子もいた。ただ、そのいずれもが俺と堀内との親密さを裏付けるもので、そして彼が存外女子の間で好評らしいことを知った。
「ま、ウチらのゆづを落とすくらいの男だからね」
俺が男だった世界では冴えないだけの男子だったはずだが、この世界の彼は聞く限りでは相応に魅力的なのだ。
もっとも、その実ただの興味本位で人を臆面もなく陥れる悪人だということは俺の知れたところなわけだが。
「ちゃんとお似合いだよ。彼と付き合いだしてから、また一段と可愛くなったしね、ゆづ」
一通りの話を聞き終えトイレへと駆け込んだ俺の顔は、思いの外ずっと火照り上がっていて、その表情は羞恥に歪んでしまっていた。
×××
「最近は女子の輪にも混ざっちゃって、随分と"柚月であること"に積極的みたいだね。なにか心境の変化でもあったのかな?」
「……別にそんなんじゃないよ。出来ることをひとつひとつ潰していってるだけ」
俺が女にされてから3ヶ月ほど経過したある日(といっても誕生日なことには変わりないけど)の放課後、そんな図星を堀内から突きつけられて、ただ俺は強がることしかできないでいた。
「そのわりに君はだいぶ明るく優しげな笑顔を浮かべるようになった気がするけど……ま、可愛い女の子には笑顔がよく似合うからね。今の方が前の塞ぎ込んでいた君よりずっと素敵だよ」
そんなくだらない口説き文句を受けて、気持ちがどきりと跳ね上がるのを感じた。
「ところで柚輝君、今日はこの後なにか予定でもあるの?」
「別に、何もないけど……ていうか、『君』はやめてよ。誰かに見られてたら……ここでは一応、私は女ってことになってるんだから」
「……理由は本当にそれだけかい?」
「え?」
「誰の記憶からも消えゆく1日に未練なんて残りうるのかい?……あるいは、自分が男として扱われることが不満なのかな?」
「っ……!」
「まあいいや。とにかく用事がないんなら、これから僕の家に来ないかい?
ーー両親は、うまく出払っておいたからさ」
「そ、それって……」
この歪な関係が始まって早3ヶ月。とうとう堀内は俺に直接の毒牙を向けてきた。
「……」
答えなんて決まっている。ここで俺が頷くことは、男の子として許されるものではない。
「う……」
だというのに、意思をすぐさま表に表せないでいる自分がいた。
近ごろの俺を悩ませて止まないこの疼きを、彼ならどうにかしてくれるかもしれない。
そんな返答に迷う俺に対して、堀内は至って平然とした口調で、
「まあ、柚月である君に拒否権は、ね?」
「あっ……」
そうだった。俺には彼の力によって行動制限が掛けられていた。堀内の彼女であり、また既に"経験済みであるらしい俺"に、堀内からの夜の誘いを断るという選択肢は、きっとこの世界には存在しないのだろう。
「そうだ……」
そう。だから仕方がない。
「……わかった、行くよ」
俺はしぶしぶ、堀内の誘いに承諾の意を示した。
女としての高揚感を、心の内に秘めながら。
ところが堀内の家に着き、すっかり夜の帳が下りてからも、彼と俺とは何事もなく友人同士のような時間を過ごした。
男女の関係だというのに、思わせぶりなことを言っていたというのに、ここに来て堀内はその素振りすら見せないでいる。
「……」
そんな空間に長く居座って、俺は段々と焦れていく自分に気づいた。
堀内がただ一言、それを口にしてくれれば十分なのに。俺に抵抗する術なんてないんだから、彼はその欲望に身を任せてなんだってできるというのに。
ーーそうしたら俺だって、満たされるというのに。
「ん?どうしたんだい柚輝君」
気づけば俺は、無意識に堀内と手を重ね合わせていた。
「あ、いや……これは……」
予期せぬ出来事に俺は顔を火照らせながら、言い訳がましく、あくまで仕方なくといった口ぶりで堀内に水を向けた。
「ど、どうせお前は私とせ、セックスしようって魂胆なんでしょ?やるんならさっさと済ませて私は早く家に帰りたいんだけど?」
そう。これは俺の意思によるものではない。俺は堀内に逆らえない。だから仕方がないのだ。今日俺は、仕方なくこの身を彼へと捧げるのだ。
そんな俺の様子を見て、堀内は至極満足そうな笑みを浮かべて、
「おめでとう。これでやっと君は、心身ともに立派な女の子になれたね」
「はあ!?な、なに言って…んむっ!?」
そして、俺の唇を奪った。
「ん……」
もしこの気持ちが唇を伝って堀内に届くのであれば、彼は俺に対してどんな反応を浮かべるんだろう。
建前と邪な動機に混ざったほんのわずかなこの気持ちを、彼は汲み取ってくれるだろうか。
自分でもわけがわからない。人生をめちゃくちゃにした相手に、それも元々は同性だった男を相手に、こんな感情を抱いちゃうだなんて。
瞳を閉じていたその間は、長いような短いような、不思議な時間の感覚だった。けれどひとつはっきりと言えるのは、自分が今、存外に心地よく、そして晴れやかな気分でいられているということ。
そして唇同士が離れていくことを名残惜しく思う俺に、彼は朗らかにこう言ってみせた。
「ハッピーバースデー、柚月ちゃん」
それを聞いて、俺は一応堀内を睨みつけてやる。
けれど内実、その言葉は俺の心に温かみをもたらしていたようだった。
×××
翌朝。ちょっとした倦怠感と股間部のひりつきに鬱屈としながら、俺はベッドから起き上がった。
ぼさついた髪の毛を手櫛で軽く整えながら、朝食のためリビングへと向かう。
「おはよう、柚月」
「おはよー」
母と朝の挨拶を交わして、そこでふと違和感を抱いた。
("おはよう"……?)
部屋の隅に飾られていたはずの見慣れた雛人形たちは、すっかり片付けられていた。別に雛人形は早々に片付ける必要もないって聞いたことがあるけど、片付けられているということはつまり、少なくとも"現時点で催しの期限は過ぎ去っている"ということ。
男に戻れなかった理由は、彼に聞いてみないことには分からない。けれど推測することは容易で、それが正解に違いないという確信もあった。
だからもう、誕生日はいらない。きっと昨日以上に幸せな毎日が、これからの俺を迎えてくれるから。
そしてそんな新しい自分の誕生を、俺は心から祝福した。
ハッピーバースデー、"私"……なんてね♪